カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の3件の記事

2017年9月29日 (金)

036 薬学的介入 【やくがくてき-かいにゅう】

 医療業界における薬剤師の役割とはなんだろうか。これに対する模範的解答はおそらく、<薬の適正使用に貢献すること>だろうと思う。この綺麗な言葉で多くの薬剤師が納得することだろうが、ここでは現実を見据え、もう少し突き詰めて考えてみたい。

 病院薬剤師でいえば、日常業務は大きく二分される。調剤や混合調製、製剤といった中央業務と、服薬指導や処方支援といった病棟業務、の二つである。

 中央業務は古くから定着しており、これを以って薬剤師が施設に貢献していることに異論を挟む余地はない。仮に調剤や製剤を薬剤師がやらなかったら、と考えるとわかりやすい。病院内の薬の回転がストップする、あるいは非常に効率の悪いことになるだろう。

 では、病棟業務はどうだろう。本当に薬剤師が施設に貢献しているだろうか。

 服薬指導を例に考えてみよう。電子カルテから患者の状態を把握し、検査値、使用薬剤、バイタルをチェックしいざ患者の元へ行く。「○○さん、最近調子はどうですか?」そんな台詞から入り込み、患者の訴えを汲み取り、副作用が出ていないかどうか確認する。

「まだ咳が出て痰も絡むんだよ」という訴えに対し、指導記録に<咳、痰+>と記載する。アセスメントでは<まだ症状改善みられず>、プランでは<シムビコート続行>と記載する。私は新人薬剤師にこれを「綺麗なだけの記録」と教えている。

 さて、この「綺麗な記録」が患者に何かプラスになるのだろうか。仮にこの服薬指導を行なわなかったら、患者が困る事態になっただろうか。薬剤管理指導料として3000円だか4000円に相当する貢献になったのだろうか。

 何が言いたいかというと、(少なくとも私が勤務する施設においては)薬学的介入ができている薬剤師は驚くほど少ない、ということである。

 多くはカルテをなぞっているだけ、と言い換えてもいい。服薬指導記録に書いてあるのは、使用薬剤であったり検査値であったり治療方針であったり、カルテに書いてあるものばかり。あるいは患者からの訴えをつらつらと並べているだけ。

 その情報に対してどう考えたのか? どうしたら問題点を解決できるのか?

 そういう視点がごっそり抜けている。

 薬の適正使用とか、薬学的介入というのは、生易しいものではない。考え、悩み、調べ、不安になりつつ何度も患者の元を訪ね、結果的に良い方に転がれば自信に繋がり、好転しなければ再度考え、悩み――

 この繰り返しである。

 薬剤師は頭脳職だと、私は学生や新人によく言う。病棟における薬剤師の武器は、頭と口を使うことだけだからである。これだけでチーム医療に参画するわけだから、考えようによっては薬剤師という職業もなかなか捨てたものではない。

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2017年9月19日 (火)

033 薬剤部会議 【やくざいぶ-かいぎ】

 あればあったで面倒だし、無ければ無いで困るのが「会議」である。薬剤師の世界でもいろいろな会議が存在する。かくいう私も幾度となく会議には出席している。ドラッグストア時代であれば、本部の人間と店長が頭を突き合わせる販促会議、病院薬剤師であれば薬剤部の方針を決める役職者会議、あまりいいことではないがミスや不始末の首謀を突き止める弾劾会議のようなもの。

 その中でも私にとって最も無意味な会議が、数年前にあった。

 その頃の薬剤部は、保守派と改新派の意見が入り乱れ、統率が取れていなかった(今がしっかりしているという意味ではない)。意見をぶつけ合う場もなく、声の大きい者が主導権を握る、そんな時代があった。

 そこに一石を投じた人物がいる。A科長である。

 A科長は定期的な薬剤部会議の開催を提唱し、それは実現された。議題ならいくらでもあった。まずは斑分けから始まり、業務の効率化、内規の見直し、勉強会のやり方について。毎回議案を提出し、議事録をまとめ、日々の業務に反映する。定例会議は軌道に乗り始めた――ように思えた。

 やがて一部の反対派が、A科長の言うこと成すことに文句を言うようになった。意見ではない。文句である。どこがどう反対なのかを言うわけでもなく、代替案を言うわけでもない。ただ定例会議の決定事項に「俺は従わない」と声高らかに宣言する。

 そんなヤツ、無視してしまえばいい、と思うかもしれない。

 それができない職場もあるのだ。皆で宥めるが止まらない。延々と1時間でも反対であることを押し通す。そのうち皆疲れ果て、うやむやのまま会議は終わる。代替案は無いから、結局白紙に戻るだけだ。無理やり押し進めてもいいのだが、ルールを守らない人が一人でもいると結局、薬剤部の秩序やモチベーションに関わってくる。

 そしてある日、事件は起こる。

「こんな会議やめようぜ」と件の問題児、B氏は宣言する。既にその日の議題について皆意見を述べている最中である。「やっても意味ねぇじゃん」

 会議を意味の無いものにしているのがまさにB氏なのだが、本人はそんなことおかまいなしである。「じゃあ意味のある会議ってなに?」と返しても「そんなのA科長が決めろよ」と上から目線。「だから、A科長が決めてるのが今の会議なんでしょ」と説くと、「それが意味ねぇんだよ」と堂々巡り。

 やがて次回の議題が決まる。

<定例会議を続けていくかどうか>

 つまり、会議をやるかやめるかの会議をするわけである。馬鹿馬鹿しくてたまらない。

 そしてこれには後日談がある。恐ろしいことに、かのB氏が現在、薬剤部のトップである。この疑心暗鬼に満ちた暴君の話は、また後述することにしよう。

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2017年9月18日 (月)

032 天涯孤独 【てんがい-こどく】

 天外孤独、という単語を久々に耳にした。まさに天外孤独の人からだ。もうすぐ七十歳を迎えるその人には、既に親はいない。結婚もしていないのか、あるいは奥さんは既に逝去されているのか、配偶者は無し、子供もいない。三十年住んでいるというアパートでは、親交ある近所付き合いもないという。家ではスポーツ番組を観て、さして得意ではないという手料理を作り、時々買い物に出掛ける。生活保護で十分な蓄えがあるわけではないし、気分転換に今日は車で遠出、というわけにはいかない。

 声を発するのが数日ぶりということもあると、淡々とその人は言う。たまに声を出さないと、出し方を忘れてしまいそうだと笑いながら言う。

 彼は末期癌だ。

 入院や通院が、唯一の社会との接点。

 七十歳という年齢が重く圧し掛かる。まだ働ける。身体さえ元気なら、ボケるにはまだ早い年齢だ。焼き鳥屋で朝から深夜まで、年に十日もない休み以外は常に身を粉にして働いてきた彼にとって、何もせずに家にいるという時間は戸惑い以外の何物でもない。これが八十歳、九十歳なら心境も違うのかもしれない。ただ、七十歳といえばまだ先を見据えることができる年齢だ。

 社会との根絶。自分で稼いでいるわけではない。生活保護を受け、か細い金でやり繰りをしている。税金で医療を受け、バスに乗り、食事を取り、そして――遠くない未来に死に至る。

残された余生に何の意味がある。彼は言う。私には判断できない。おそらく誰に判断することもできない。税金を消費しつつも生き永らえていることに意味を見出せるのは当の本人しかいないのかもしれない。

 天外孤独のその人は、よく喋る、人の良いお爺ちゃんだ。家族がいたら、奥さんからは鬱陶しがられながらも仲良く過ごし、孫からは玩具をねだられ、近所の友人からは畑仕事の手伝いをお願いされ、焼き鳥を買いに来たお客さんにはサービスで一本おまけする、そんな好々爺だ。

 食事が唯一の愉しみだ、という。

 抗癌剤で味覚異常が現れ、化学療法のあとは食欲自体が衰退し、金銭面、あるいは調達の面から好きなものを好きな時に食べられるわけではない。それでも食事が愉しみだ、という。「余所様の税金」で用意された食事を噛み締めながら、死を静かに待つ天外孤独の彼が心に思うのはどんなことなのだろう。

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