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2017年9月18日 (月)

032 天涯孤独 【てんがい-こどく】

 天外孤独、という単語を久々に耳にした。まさに天外孤独の人からだ。もうすぐ七十歳を迎えるその人には、既に親はいない。結婚もしていないのか、あるいは奥さんは既に逝去されているのか、配偶者は無し、子供もいない。三十年住んでいるというアパートでは、親交ある近所付き合いもないという。家ではスポーツ番組を観て、さして得意ではないという手料理を作り、時々買い物に出掛ける。生活保護で十分な蓄えがあるわけではないし、気分転換に今日は車で遠出、というわけにはいかない。

 声を発するのが数日ぶりということもあると、淡々とその人は言う。たまに声を出さないと、出し方を忘れてしまいそうだと笑いながら言う。

 彼は末期癌だ。

 入院や通院が、唯一の社会との接点。

 七十歳という年齢が重く圧し掛かる。まだ働ける。身体さえ元気なら、ボケるにはまだ早い年齢だ。焼き鳥屋で朝から深夜まで、年に十日もない休み以外は常に身を粉にして働いてきた彼にとって、何もせずに家にいるという時間は戸惑い以外の何物でもない。これが八十歳、九十歳なら心境も違うのかもしれない。ただ、七十歳といえばまだ先を見据えることができる年齢だ。

 社会との根絶。自分で稼いでいるわけではない。生活保護を受け、か細い金でやり繰りをしている。税金で医療を受け、バスに乗り、食事を取り、そして――遠くない未来に死に至る。

残された余生に何の意味がある。彼は言う。私には判断できない。おそらく誰に判断することもできない。税金を消費しつつも生き永らえていることに意味を見出せるのは当の本人しかいないのかもしれない。

 天外孤独のその人は、よく喋る、人の良いお爺ちゃんだ。家族がいたら、奥さんからは鬱陶しがられながらも仲良く過ごし、孫からは玩具をねだられ、近所の友人からは畑仕事の手伝いをお願いされ、焼き鳥を買いに来たお客さんにはサービスで一本おまけする、そんな好々爺だ。

 食事が唯一の愉しみだ、という。

 抗癌剤で味覚異常が現れ、化学療法のあとは食欲自体が衰退し、金銭面、あるいは調達の面から好きなものを好きな時に食べられるわけではない。それでも食事が愉しみだ、という。「余所様の税金」で用意された食事を噛み締めながら、死を静かに待つ天外孤独の彼が心に思うのはどんなことなのだろう。

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